アイの日記 〜宇宙とつながる脳性麻痺のおばあちゃん〜

宇宙とつながるスピリチュアルなアイちゃんの日記です

石崎アイ 〜 限りある人生だから、苦難を切り開く 1 〜

私は五十年以上、いつか歩けるという夢を、ずうっと見続けてきました。

それは運命の悪戯で不可能なことであったとしても諦めずに、そして両親や家族からの愛に支えられて、社会の人たちからも支えられて育ってきました。

動かない身体でも「よし、やるぞ」の思いでつぶやくと、口からでる言葉に勇気が出て励みが出て、希望も夢も不思議とふくらみました。そして自然と、ありがとうの言葉がこぼれるようになって、「こぼれて、こぼれて」こぼれ続けて癖になりました。

それがいつしか真心で言える「ありがとう」になりました。

私は、毎日「ありがとう」の言葉は、絶対に欠かすこともなく自然と出てきます。笑顔は自分の心にも、相手の心にも「愛の栄養」を与えられると思います。

「水や、空気や太陽の恵みに」そして全てのものにありがとうの感謝の気持ちです。

朝、目を覚まし「あぁ、生きて良かった」と日々思っています。

しかし、そんな綺麗事ばかりではなく、二十代のころ施設職員から面白半分に嫌みを言われたり、出来ないことを無理矢理押しつけられたり「いじめ」のようなことを受けて、自分の運命に負けて何もかも嫌になり、首を絞め死のうとしたこともありました。

あいにく同僚に見つかって上司のところに連れて行かれ、怒られて説教されました。

 

「今、おまえが何をしたか解っているのか、愚か者め!どれほど周りの人に心配かけているか、一番心配してくれているのは、おまえを育てた家族なんだぞ!おまえの人生は、これからじゃないか、父ちゃん母ちゃんを悲しませるな!お前には手があるじゃないか、口も聞けるじゃないか、目も見える、耳も聞こえる、足もあるじゃないか、何が不満なんだ」世の中には、目が見えなくても、手足がなくても立派に生きている人たちが大勢いるぞ。お前の周りにだって、足が曲がっていても松葉杖でしっかり歩いているだろう。人間は努力なんだ、おまえも人間だろう!頑張れ!頑張るんだ!自分にあるモノでいいんだ、生かせばいいんだ、自分の価値を出せばいいんだ。人に迷惑をかけたり心配かけたりするな最低の人間だぞ!」

 

怒られて、説教されて何も言えない自分が、非常に悔しかった、恥ずかしかった。それから勇気を出し、何事にも負けない、くじけない辛抱強く力をつける努力をしました。いろいろなことにぶつかり、二度も自殺行為をした自分だけれども、やっと生きることの大切さに目覚めました。それからは絶対に、死のうという考えがなくなり、人生を変えるには、自分自身であると、周りの人たちに心配かけながらも頑張ってきたお陰かなと、今は感謝の思いです。

 

 

石崎アイ 〜 自己紹介 〜

今私は、両親からもらった大切な命と身体ですが、五十年以上経つと力も弱まり背骨が曲がり、全身身体の痛みに耐えられなくなって、介護が必要となってしまいました。

毎日、1日五回交替でヘルパーさんに来てもらって、朝五時半にベッドから起こしてもらい、1日の始まりとなります。

そして自分の身体がこれ以上悪くならないためにも、常に元気になろうという信念をもって「自分の可能性を信じて」もちろん健康には気を使い、いつも新しい目標に向かって挑戦していこうという思いが何処まで実現できるか楽しみです。

一日一日を楽しく、そして努力の積み重ねの自分の人生に、心から「ありがとう」と言えたら、どんなに素晴らしいことかなと、夢に見て楽しみに生きています。

両親や家族の愛に、助けられた大切な生命を自分で、しっかりと守っていきたいと思います。周りの人たちの愛に支えられて、水や、空気や、太陽の恵みのお陰で生かされています。

 

※この文章は、アイさんが不自由な身体で平成三年からワープロで全文入力したものです。本人の意思を尊重し、制作にあたってほぼ原文のままにしています。

 

平成15年9月28日

石崎アイ 〜 生い立ち 15 〜

冬の後には必ず春が来ることを信じて

 

アイは家がまずしかったので、厳しい生活で、父親は短期でつらいことばかりでした。そんなとき、母親はいつも信じる言葉、冬の今年冬は必ず春となると言って口ずさみながら自分自身を励まし、アイをも励ましていたのです。そしてアイは自分の夢と希望を言葉に表すと大人って勝手なもので、今度は母親から「槌より柄の太いことばかり言うな!」と怒鳴られ、体が効かないくせに大きいことを言うなということでした。人間は幸せで楽しいことばかりではない。

つらく悲しいことばかりでもない。自然も人間も生かされている限り、苦楽が備わっているから、考え方の相違ですごい人生を築けるかもしれない、アイはいつも何か変化のある日々を作り出す面白い性格でした。そして楽しく考えて良いことをたくさん数えながら自信を持って積極的に行動していたためか、夢を描いて不思議と希望通りに実現していることで、アイは今が初春だと思っていました。さて、療育園にすっかり慣れてみんなに好かれて楽しく助け合っていたのです。そしてお手伝いが好きなアイは、ちょっとしたことでも積極的に進んでやっていたため、職員たちからも頼りにされて、特に御洗濯場のおばさんたちにかわいがってもらいました。

養護学校の桜井先生はそんなアイの姿を見ていて声をかけてくれたのです。桜井先生は中年女性で見かけは少し怖そうでしたが、とても素晴らしい先生でした。アイが社会復帰を目指していることを聞いて特別に勉強を教えてくれることになったのです。国語算数ローマ字の他に家庭科からミシンの使い方まで教えてくれたのです。

桜井先生は、アイちゃんというかわいい娘さんがいて、いつも娘さんの話をしながらアイと同じ名前だと言っていろいろな面から真剣に教えてくださいました。

そしてみんな反抗期の年頃になっていたためか、男子は異常に威張り、女子を馬鹿にしていじめるようになったのです。女子はなっかよくまとまっていて、男子の妬みからなのかわからないけれど喧嘩を仕掛けてきたのです。
「おめえたちはな、カエルみたいにきゃきゃきゃきゃとうるせえな!カエルはカエルでもな、小便カエルか、くそカエルじゃねえか!そうだそうだ!小便ガエル、糞ガエルだあい!」日頃男子に馬鹿にされて泣いている女の子たちはこのときとばかりに怒り出しました。
そして、アイの周りに集まってきて助けを求めようとしたのです。
「何をあんたたちこそうるさいんだよ私達を見れば下にしてるんじゃないよ。」「アイ聞いてよ、いつも嫌なことを言って馬鹿にするんだよ、」「ひどいじゃない!よし、女の子をいじめるなんて最低の馬鹿野郎だ」
いい加減にしなさい。正義感の強いアイは1人で男の子に歯向かっていたけれど、男子5人に押しかかってこられ、男子の方が強くてアイはひとたまりもなく負けてしまいました。「糞面白くない、絶対に許さねからな、覚えてるよ」
アイは苦し紛れについ乱暴な言葉を吐いてしまい、その夜、点呼が終わった後寝たけれど、いまいましい気持ちが先に立ってどうしても眠れませんでした。そこでこっそり抜け出して、外で頭を冷やしていると看護師さんと宿直の先生が
懐中電灯を照らしながらアイを探しに出てきたのです。宿直はいつも男の先生で養護学校の萩原先生だったのです。萩原先生はアイを見ると、いきなり怒りました。「アイ!お前何やってんだ、駄目じゃないか馬鹿者。早く部屋に入って寝ろ!人に心配させたり迷惑かけるなんていけないぞ。お前たちは本園から来たみんなの先輩じゃないか、しっかりしろよ、先輩から規則を守れないでどうするんだ、お前がそんなことじゃ困るか!」アイは下を向きながら悪いと思ったけれど、男子が異常な威張り方で面白がって女子をいじめていることが許せないので、どうしても萩原先生に話してわかってもらいたかったのです。
萩原先生はわかってくれたように深くうなずいてアイを頭をなでながら慰めて部屋まで連れて行ってくれたのです。アイは自分の気持ちをわかってもらえたことと萩原先生の温かい眼差しで怒られたことで胸がいっぱいになり泣き出したのです。そして女の子たちも萩原先生の心根がわかって、アイと一緒に泣いてしまいました。アイは怒られたけれど、萩原先生の優しさを感じて張り詰めていたものが一気に崩れ、
涙が止まらなくなり萩原先生の胸の中で思いっきり泣いてしまいました。
「人を馬鹿にするなんて最低の人間がすることだな。よしよしわかった明日な。野郎どもによく事情を聞いて、今後やらないように注意しておくからな、今夜はいいから寝ろいいなわかったらよしよしも泣かなくていい」
今まで両親から怒られて一度も優しい言葉をかけられたことがなかったので萩原先生の愛情のある言葉がどれほどアイの心に響いたことかしれませんでした。しおれかけていた雑草が夕立の雨に打たれて一挙に青々と茂ったようにぐんぐんしたアイの気持ちはまた元通りに元気な姿に戻ったのです。
そして萩原先生の説得が効いたのかその後、男子の態度は打って変わったようにおとなしくなり、気持ちが悪いほど優しくなって、みんな仲良くまとまっていったのです。夏休みに入り、整肢療護園から移されてきた数名のメンバーが、今年はお盆に家に帰れると喜んで日にちを数えて楽しみにしていたのです。
そんなとき、アイに悲しい知らせが入りす長年に渡ってかわいがってくれた祖母ミツの容態が悪くなった。ということでした。母まつ江からの連絡で、父親が迎えに出たから家に帰る支度をしてもらっているようにとのことで、アイは祖母が心配でどうしたら良いのか自分でもわからない状態でした。
「先生ばあちゃん大丈夫だよね。死なないよね。」指導主任の松川先生は心配して家に帰る準備を手伝いながら励ましてくれたのです。「あなたはおばあちゃんにかわいがってもらったので、きっとおばあちゃん待ってらっしゃるわよ、よくお話してらっしゃいね」そして父親が迎えに来てくれて、職員たちに挨拶をしながら、
いろいろと詳しい話をした後、1週間ほど外泊許可をもらってアイは父省吾に手を引かれてバスで家に帰ったのです。家に着くと母まつ江が迎えに出てくれて、1年半ぶりに帰ったアイに祖母のと、今までのことを涙ながらにしみじみと話して聞かせました。
「アイ!久しぶりだに、元気でいたかい?おめえを心配してなばあちゃんが待ってるだよ」「はやくそば行ってやりなぁ!」「ばあやんは歳でな、91歳だからお医者さんに診てもらったらな、老衰になっているだと!」
 
まつ江はそう言って祖母ミツが寝ている部屋へアイを連れて行き、静かに声をかけました。「バーやんアイが帰ってきた。わかるかい場合やアイが来ただよ」祖母は床につく伏せたまま目を開けてやつれた手をそっと出し、アイの手を取って懐かしむように迎えてくれたのです。
「おうおう アイか!よく来たな大きくなったなバアヤンはアイのことが心配でなあ!元気だったか!そうか良かった良かった!ばあやんはもう駄目だわや。」
祖母は静かに笑いながら大きくため息をついて自分の寿命を悟ったようでした。両親から祖母の命は長くはないと聞いて覚悟はできていたつもりでも、やっぱり元気な頃の祖母の姿を思い出し、アイは悲しみの涙をポロポロと出して泣きました。
「ばあちゃん元気になって、アイが帰ってきたからね、元気になってよ!ばあちゃんの昔話が聞きたいの!ばあちゃん死なないで!」
しかし、アイの願いもむなしく祖母ミツの言葉はもう聞けなくなっていて、アイに水を飲ませてもらうと安心したのでしょう。それから、行く日も眠り続けていたのです。アイは1週間の外泊だったので、祖母が心配で心残りで療育園に帰りました。
 
そして1ヶ月後祖母ミツはアイを心配しながら91歳の生涯を遂げたのでした。祖母が亡くなったという知らせを受けたとき、アイは風邪を引いて40度の高熱を出して寝ていたのです。父が迎えに来ていたけれど、熱があるため、注射を1時間おきに5本打っても下がる気配がなく、医者と看護婦は思案の末、かわいそうだけれど仕方なく今度はアイのお尻に注射を30分おきに4本打ったのです。ようやく36度前後に下がって父翔吾もにおぶさりバスに3回も乗り換えて、家に着いたのは夜の8時過ぎでした。自分がしっかりしなければという気持ちと、なぜか祖母が見守ってくれているような元気な姿だったので、アイの元気な姿を見て、家族も周りも驚くほどでした。
そして翌日祖母の葬式が行われ、当時の田舎はまだ土葬でしたので、祖母の柩を見送りアイはお墓まで行かなけれ行かれないので、家の庭から「野辺送り」をはるか遠くに見えなくなるまで見送りながら祖母から学んだ様々なこと、悲しい涙で思い出して泣いていました。
 
「アイはばあちゃんのおかげで大きくしてもらえたの!ばあちゃん長い間ありがとうおばあちゃん、いくら叫んでもばあちゃんはもういないんだよね!」
 
祖母は亡くなったけれど、アイの心にたくさんの言葉や考えを残してくれたのです。アイの将来のために人生の道しるべになるようなものとして様々なことを教わっていました。浅間山が北に見えて、南に蓼科山が見える場所で、祖母は延々と眠り続けることになりました。

石崎アイ 〜 生い立ち 14 〜

7 夢の道しるべ

療護園の並びに長野県諏訪養護学校という立派な教育施設が建てられていました。 設備よくできていて、廊下続きに教室まで車椅子で入っていかれるようになっていました。 アイはあと1年余りで18歳になるけれど、たとえ短い期間でも療護園にいるうちに 小学校で勉強を教わって、義務教育まで受けられたらと思っていました。 そして社会復帰を目指し、 夢と希望を大きく膨らませていたため、漢字や数字計算を覚えておきたくて、 指導員にお願いして、養護学校の教育施設の方へ 申し出たのです。 ところが年齢が行き過ぎているということで、「駄目だ」とあっさり断られしまいました。無残にもアイの 夢と希望は虚しい紙くず のようになってしまったのです。 しかし、 辛抱強いアイは、そのまま諦めようとはせずに、少ない時間でもたくさんの勉強を学びたいと一生懸命だったのです。 わかっていても、今度は担当指導員に、せめて必要なだけの勉強を教えて欲しいと願い出たのです。またアイの意欲に驚いていたのか困ったのか?指導員たちは顔を見合わせ、首をかしげてただペンを握りしめるだけでした。

それから、 数ヶ月後、アイの念願が叶ったのか、学校へ行かれなかった人たちを数人ほど集められ食堂の一部を教室にして、特別学級を設けてくれたのです。 幸いにも、担当指導員が保母さんだけれど、教師の資格があって、 養護学校で使われた教科書を借りて、小学校一年生から4年生までの勉強を教えてくれることになったのです。 勉強は一日おきでしたけれど、国語、算数と 漢字の調べ方から読み方、九九の覚え方、掛け算の計算を一通りのことを教わり、 社会はNHK教育テレビを見ながら、教科書と合わせて教えてもらいました。 

中には手足が効かなくて、唇で上手に本のページをめくって読む人もいたけれど、仲良く問題の答え合わせができるので、みんな勉強を楽しみにやっていました。しかし指導員たちが困っている一つの問題点があったのです。それはアイが絶対に家に戻りたくないということ、だから社会復帰を決めているということからでした。当時の社会福祉では、まだ重度障害者の授産施設ができる段階ではなくて、重度障害の子供たちの場合、施設に入っても期限が決められていて、また家に戻される仕組みでしたから、社会復帰を目指していても、不可能なことで世間でも認められていない非常に難しい問題でした。アイが社会復帰を目指していることはすごいと思うが、当然無理なことで結局家に戻すしか解決方法はなかったのです。そしてアイと同じように一生懸命夢を描いている子供たちのために今後どうすればよいか指導員たちが検討した結果、まず父兄懇談会を開いて、家族の考えや意見を聞いたところ子供たちのことを考えている家族もいたけれど、 結構曖昧に考えているところが多かったのです。そこで重度障害を持つ子供たちの将来のためにこれからの施設の問題から福祉の質問題について考えて検討していく方針を立てられていたのです。しているうちにもアイの18歳という期限は一刻一刻と迫っていました。
昭和39年3月には大勢の人たちが療護園を入れ替わったときで高校へ進学する人たちや社会人になっていく人たちが夢を描き、希望にあふれた姿で品の生死療護園を出て行こうとしてしていたのです。まるで渡り鳥が翼を大きく広げて羽ばたきながら暖かい南の国へ飛び立っていくような光景に見えたのです。
しばらくして指導主任の田中先生から緊急連絡事項の知らせが入り、みんなに食堂に集まると今度食事の稲荷山に信濃整肢療護園の分園ができて稲荷山療育園という施設名で主に脳性麻痺の子供専用に通園施設として新しく建てられたものでした。そこで職員たち数名の移動発表が行われて、その後、脳性麻痺の児童数名の異動発表が行われることになっていたけれども、慌て者のアイは大好きな優しい先生方や友達がいなくなると聞いて寂しさや悲しさが込み上がってきて泣き出してしまったのです。アイが泣きだしたことでみんなもつられて泣き出してしまい、職員たちももらい泣きしてハンカチを目に当てながら、これからの方針や内容説明を神妙に聞いていました。児童数名の名前が呼び上げられて、移動発表が行われた中にアイも入っていて、稲荷山へ移されることになったのです。まさか自分までが新しい施設へされるとは思っていなかったので、アイは嬉しいような寂しいような不安な複雑な気持ちでした。そして昭和39年7月にアイを含む数名の児童たちは、信濃整肢療護園を後にマイクロバスに乗って更埴市の稲荷山療育園へと移動してイタチが療育園に到着すると、知り合いの職員たちが多かったので、気安く声をかけてきてくれたのです。 入園者は初めてなので、みんな玄関に入れて迎えてくれたけれど、お互いに戸惑いがあって恐る恐る話しかける状態だったのです。稲荷山療育園は入園者50名収容でほとんどの子供たちが1日2日前に入ったということです。
建物が完成したばかりで綺麗でしたが、困ったことに水道の水が茶色に濁っていて、消毒臭くて、泥水に牛乳をこぼしたような色で飲める状態ではなかったのです。喉が渇いても水が飲めないので、厨房の方からは毎日大きなやかんに番茶を沸かし湯ざましにしたものを用意されてあったので、それを飲むしかなかったのです。
入浴のお湯も抹茶色でそれこそ番茶のお風呂にでも入ってるような感じでさっぱりしないか気分でした。洗濯場のおばさんたちが一生懸命漂白剤を使って洗ってくれても白い下着やシーツなどの全てのものが茶色い色が変わってしまうので、みんな困った状態でした。そんなを養護学校もできていないので、先生たちもしばらくの間は療育園兼用で指導員たちと一緒に仕事をしていたのです。療育園の部屋の一部を教室にして授業時間はみんな先生について一生懸命勉強に励んでいました。本園の療護園にいたころよりもアイは時間がずっと短く感じていたのです。そんな状態が2年ぐらい続き、アイが出た後も暫く続いたということでした。

石崎アイ 〜 生い立ち 13 〜

「アイの奇跡」

 

しばらく経つと、暑い夏が来て、指導主任の田中先生が遠足の行事発表してくださいました。 遠足は霧ヶ峰高原で野外訓練としてキャンプ・ハイキングをやるということでした。そして貸切バス2台用意され、みんなバスに乗り、ガイドさんの案内で出発しました。

「療護園の皆様、今日は大変良いお天気に恵まれまして本当に良かったですね。 それでは、 皆様方とご一緒に、霧ヶ峰高原と車は出発してまいります」

ガイドさんの案内説明が終わると、はるか遠くに霧ヶ峰の緑の草原が見えてきました。 

そしてオレンジ色にされているニッコウキスゲの花が目に入ったのです。

「はあー綺麗だね」

「ほらそこにも咲いているよ」

「気持ちがいいね」

「うん。風が冷たいよ」

みんな大喜びでバスの窓を開けて、清々しい空気を吸いながら、緑の草原を走りました。 オレンジ色のニッコウキスゲに見とれているうちにバスは到着してしまいました。 バスから降りると、普段角ばっている。 職員たちも無邪気な子供のように一緒になって草むらに転げ回り豊かな自然に戯れながら、子犬のようにそれは楽しそうな姿でした。 

お昼を食べると、ハイキングのグループとキャンプのグループに分けられました。 そして歩ける人たちは、男の職員に従ってキャンプ場へ移動することになって、アイはあまり歩けないのにキャンプのグループに入っていたのです。 キャンプ場は大きなテントが張られていて、泊まれるようにできていました。 そして各班ごとに飯ゴーを米、カレーの材料などが責任者に配られて、 アイは先生や友達に手を引いてもらい、みんなと一緒に山の湧き水場へ行って、お米や野菜などを洗っていたけれど、山の水は冷たくて指がちぎれてしまうほどでした。 

「おおい、早くやらないとカレーライス食べられないぞう!」

男の先生方は男の子たちとキャンプファイヤーをやる準備で追われて、焚き木を集めていました。 女の先生たちも子供たちと一緒に 大きな鍋にカレーの具を入れて煮込んでいたのです。さて、飯ゴーのご飯が炊き上がって、 カレーライスをお皿に盛ってみんなで食べようとしていたときです。 急に霧が巻いてきて、当たりが見えなくなり、雷が鳴り始めたのです。 

「おおい!みんな班ごとにテントの中に入れ!」
男の先生の号令がかかりました雨がポツポツして、 来て、みんな慌てて荷物を運び込みました。アイも何かしなくてはと思い、とっさにカレーが入った大きな鍋に無意識のまま手が入ってしまい、持ち上げると、鍋を使わずにして5mほど運んでしまったのです。 何が起きたのかわからないけれど、体が宙に浮いたように軽くなって何かに支えられたように、自然と足が抜けてしまい、自分でも不思議だと思っただけでした。 
一瞬のできることだったけれど、アイは神様が力を与えてくださったと嬉しく思ったのです。 アイは今までにも危険なことにぶつかると不思議な不思議と助かったり普通では考えられないことでも、やり遂げてみせる何か不思議なものを授かっていました。
「先生カレーのお鍋持ってきました」
「はい、はい、どうもありがとう? あなたこんな重たいものをどうやって持ってきたの?」
 
大人がやっと持ち上げる鍋をあまり歩けない、アイが運んだことで考えられないことをやってしまったと先生方も仲間の人たちも驚いていました。 そして無事テントの中へ全部運び込むことができて一安心でした。 しかし、アイの不思議な出来事は、ただ火事場の馬鹿力としか言いようがなかったのです。 さて、夕立はやんだけれど、雨が降った後、それぞれのテントの中から懐中電灯の明かりが漏れて、みんな和気あいあいの夕食でカレーライスが美味しく食べられました。
「大雨やんだらしいぞ。 星が出てるぞ、気持ちがいいな、キャンプファイヤーできそうだな!」
外で男の先生たちが話し合っていました。ガヤガヤガヤガヤみんな外へ出てきて賑やかになりました。先生方の指示により、キャンプファイヤーに火が入れられると、燃え上がる炎を囲んで、 踊ったり、花火を上げたりして、生涯思い出に残る、とっても楽しいキャンプができました。 そして、療護園に帰ってみんなお風呂に入りながら真っ赤に日に焼けたアイの顔を見て、天狗の鼻のようだとみんなが笑いました。そしてキャンプの思い出話に話が尽きませんでした。 
アイは自分でできないと思ったことでもできてしまう。学芸会のときも今回のキャンプのこともみんなに助けられながらも、一緒に行動したことは大変な努力だと思います。 アイは人間として、何事もやり遂げる大切さと、ど根性のすごさを意識していたのです。 

 

挑戦心は誰よりも強く、夢と希望は誰よりも大きい、経験こそ宝だと思っていました。 アイの小さなときからの苦労が伊達ではなく人間としての心の基礎ができていたからです。
 
さて、いよいよ秋は有名人の歴史を学ぶことになっていて、 長野市柏原の出身で、 俳句で有名な小林一茶の歴史を訪ねて、一茶の生き方から様々な作品などを見学してきました。
「我ときて 遊べや 親のない雀」「故郷は 西も東も バラの花」を覚えてきました。 
そして映画鑑賞は障害にも負けず懸命に頑張った有名な人たちの物語でした。 シューベルトの未完成交響楽と、奇跡の人ヘレンケラーの物語だったのです。当時の映画は白黒で、それに英語でしたから、場面の端に言葉が書かれているけれど、読むまもなく変わってしまうので、映画の場面を見るだけで精いっぱいだったけれど、 アイは英語がわからないけれど動作や表情で十分内容がわかりました。 シューベルトベートーヴェンは作曲家で、途中から耳などが不自由になった人たちで、ヘレンケラーは盲目でありながらも医師、懸命に頑張って人々に勇気を与えた人でした。 
どれも素晴らしい映画でした。印象に残されたと言えばヘレンケラーの映画でした。ヘレンケラーはかわいい少女なのに、まるでい、野生の動物のような、 動作で凄まじい姿でした。そしてヘレンケラーを良くしようと必死で教育する女性家庭教師のサリバン先生の姿も、ヘレンケラーに負けないぐらい凄まじいもので、みんな圧倒されたまま見ていました。 盲目の障害にヘレンケラーもサリバン先生も共に悪戦苦闘の日々が続いたのですサリバン先生の熱意と真心がヘレンケラーに通じて、サリバン先生に水をかけられて濡れながらも、「ウォー、ウォー、ウォーター」と叫んだのです。 サリバン先生はびしょびしょに濡れたヘレンケラーを抱きしめて、ヘレンケラーと共に喜び合っている場面でした。 アイは唖然として見ていたけれど、 精いっぱいの姿に感動を受けていたのです。 人間誰でも目が見えない、耳も聞こえない言葉も喋れないとなれば最悪なことでしょう。 だから決して諦めてはならない諦めの心は、生命が救われない奇跡も起こらないと思います。 
 
欲望に心を奪われずに、意欲に心を生かすならば、自然がけしてみせないと思います。 心と心の愛の姿勢が自然の力を呼び起こし現実にさせてくれることかもしれません。 アイが生かされていること自体、奇跡の証明です。たくましい勇気と優しい心、明るい心とかわいい心にアイは生かされてると思う。これからますます楽しみです。 月日が経って施設生活に慣れたといっても、児童福祉施設なので18歳未満の子供たちが体の 機能訓練として手足を治すところで、期限が来ると、 事前に出ることになっていました。当時の福祉施設といっても、世の中が厳しい状況で、国や県もまだまだ余裕がなくて、県の施設は身体障害者児童福祉施設身体障害者職業訓練指導所しかなかったのです。 そして障害の軽い人たちは、社会復帰するために1年間職業技術を身に付けなければ身につけられたのです。 今のように重度身体障害者授産施設がないので、せっかく夢を描いて頑張ってみても、最終的にはまた家に戻される羽目になってしまいます。 車椅子で脳性麻痺の男の子は18歳になって、療護園を出されてもまた家に戻るしかない。 家の留守番をしながら、鳥を飼うことしかないと切実に訴えていました。 アイはそのことを聞いていて他人ごとではない自分も同じ立場だと思いました。 自分もあと2年余りで18歳になるけれど、療護園を出されても行くところがないのですけれど、アイがまた家に戻される羽目になって、家族に面倒見てもらうことになったら、あまりにも残酷すぎると思います。 しかし今のように社会情勢があまり豊かではなく、福祉制度も限られていたので、 どうしても脳性麻痺の重度障害者は、 家庭の隅に置かれるか、留守番だけで一生を終えるかでした。当時重度身体障害者が社会に出ることは世間に認められない、当然無理なことでした。 世間の目障りだと邪魔者扱いされたり、馬鹿馬鹿といって馬鹿にされて差別されていた時代で、時代が変わっても人間の考えが変わらないことは非常に悲しいことだと思います。 そして両親の家族、両親や家族は、アイが施設に入ったことで十分安心しているかもしれないがそれはとんでもないことで、アイは将来のことが心配で考えずにはいられませんでした。しかし重度身体障害者授産施設やコロニーができることはまだまだ程遠い夢のことでした。 

石崎アイ 〜 生い立ち 12 〜

6、「奇跡は心の奥に眠ってる」

 

信濃整肢療護園では、季節にちなんだいろいろな年間行事が行われていました。 春の学芸会から始まって、お花見、諏訪湖一周巡りと、夏はキャンプ、ハイキング、そして、 紅葉の綺麗な秋は映画鑑賞などでいろいろと楽しい催しがたくさんありました。 春の学芸会が近づくと、1ヶ月前から劇の練習が始まって、みんなそれぞれ練習に張り切ってやっていました。しかし、アイは劇をやることが嫌いになっていたので、 劇の練習と聞くとなぜか重石を乗せられたように気が重くなってしまうのです。

それは毎日の機能訓練で、大きな鏡の前で歩く練習をしているけれど、鏡に映る自分の姿を見るたびに、まるで壊れかかったロボット人形のようで非常に嫌な気持ちでいました。 脳性まひ独特の症状で、自分の意思と全く違った動きになってしまうのです。 運動神経のアンバランスによってなる表情で仕方がないことかもしれない。しかし、アイにしてみれば、自分の不格好な姿をわざわざ人前に見せつけなければならないかと思うと、 どんなに切ない気持ちで悔しい気持ちでいたか、それは誰にもわからないことでした。 そして、周りの看護婦さんとか、綺麗な女性職員たちを見ていると、アイも年頃の女の子として、つい自分も素敵な女の子の姿に夢を見てしまうのです。 アイはだんだん自分が惨めになってしまい、みにくいアヒルの子、よく絵本で見たけれど、そんなことを思い出して泣いていました。 けれど、みにくいアヒルの子は白鳥の子供であって、やがて大きくなると立派な白鳥に成長して飛び立っていったことも知っていたのです。 

みにくいアヒルの子のアイの心境は誰にもわかってもらえないし、それが許されるわけではありませんでした。 学芸会である劇の題名は、「森の小人たちとゆかいな仲間たち」に決められていたのです。 

 

そして、アイは森の動物の熊をやることになっていました。しかし嫌なものは嫌だと、アイは顔をしかめ、駄々をこねたのです。先生方は、アイの心境などわかりっこありません。 だから何か意味深いものを感じたようで、アイを勇気づけさせるため、 厳しい口調になり、意見や説得にかかったのです。
「アイさんあなただけが特別な体をしているわけではないでしょう。ここにいる人たちはね、みんな体が不自由でも負けないで頑張っているのよ。 見てごらんなさい。みんな一生懸命頑張ってるでしょ。 あなたが劇を嫌だと言えば、みんなができなくてできなくなってしまうのよ。 何が嫌なの。例え嫌なことがあっても、訓練なのよ。 さあ、みんなと一緒に頑張ってやりましょうね」
 
みんなが劇の練習をしている場所へグイグイ引っ張られて連れて行かれました。何事も訓練で劇をやることも一つの訓練だと言われてしまえば仕方なく従うしかなかったのです。 先生方の真剣な説得によってアイの心は開かれたのです。 
そして運命のいたずらに鍛えられてつらい思いや悲しいことの繰り返しで、アイの人生はどんどん膨らみかけていきました。
 
いよいよみんなの楽しみにしている学芸会の日が来て、大勢のお客様や父兄の人たちが学芸会を見て、見に来てくださることで、子供たちは朝から大喜びでした。 アイは劇のことが心配で、みんなのように喜べる心境ではなかったのです。 嫌なことは言っときも早く終わってほしいと思う願うばかりです。 そしていよいよ先生方のマイクロホンを使った司会が入り、劇の題名が紹介されました。 
「次は森の小人たちと愉快な仲間たちです。 お父さん、お母さんに見てもらおうと、みんなこの日のために一生懸命練習をしました。 森に住んでいる小人の木こりさんたちが仲良く森の動物たちと暮らしていました。 はい。それでは皆さん、大きな拍手をお願いいたします」
マイクロフォンから流れる言葉に、お父さんお母さんたちは元気に出てくる我が子たちの姿を見ると、ハンカチを目に当てながら一生懸命拍手を送ってくれました。 

 

みんなかわいいペンギンのように元気よく舞台の中央へ飛び出してきたのです。 アイは後から森のくまさんや区でクマのお面をかぶって出てきました。 冬眠から目を覚ましたクマが目を擦りながら出てくるシーンでしたけれど、舞台の中央まで出たのはいいが、脳性まひ独特なアテトーゼの緊張感に襲われてしまったのです。 体がカチカチに硬直してしまい、足が動かなくなり、歩けなくなってしまいました。 転んでは起きてまた転んでしまう、それこそ壊れかけたロボットのような姿でした。 
アイが必死でやってる姿が、皆さんにはとても面白く受けてしまったようでした。 そして劇のメンバーも笑い出してしまい、少し困った様子で戸惑っていたのです。 アイや、みんなの格好が面白かったと見えて、お客様を笑い出したのです。 その時大勢の客席の中から頑張ってという励ましの声がかけられたのでした。 どうなることかと先生方も心配そうに見ていたけれど、笑いを含ませて、陰で一生懸命マイクで言葉を入れて応援してくれました。 
 
「おやおやどうしたことでしょう。森のくまさん、転んでしまいましたね。大丈夫でしょうか? お酒を飲んで酔っ払っているようですね。おやおや。 仲間のみんなが助けに来ましたよ、よかったですね。熊さん、熊さん頑張ってください」
 
 アイがメンバーに支えられて立ち上がると、みんな拍手をしてくださいました。 綱渡りでも見ているような駅で、 ハラハラドキドキでしたけれど、無事終わることができてみんなほっとした気分です。みんなの協力によって、アイは勇気が出て自信がついたことはとても嬉しいと思ったけれど、しかし劇をやることはもうこりごりだと思いました。 
 
学芸会が終わって、今度は綺麗なお花見の季節になって、 桜の花が満開に最低。 青々と広がる空から花びらがひらひら舞い落ちる桜の下に、お座敷のようにござを敷いてもらって、花の国の子供たちのように振る舞い踊る花びらと一緒になって大喜びで飛び回っていました。 動けない子供たちも、 御座の上に寝かされたまま、顔に花びらが舞い散ると、赤ん坊のようにキャーキャーと喜んで楽しく している姿は、優しい天使のように見えました。 
 
そして、お昼には美味しそうなおにぎりが2個ずつみんなの前に用意されました。 おにぎりの海苔の香りがしてたまらなくお腹がすいてしまいます。 アイは自分で食べられ食べながら食べられない子供におにぎりを食べさせてやると 「アイちゃんって優しいのね」と、言語障害であまり喋れない子供たちが懸命に喋ってくれたのです。 ご飯をこぼしながらも、外で食べるおにぎりは、懐かしい故郷の美味しい味でした。 その後、諏訪湖の遊覧船に乗って、諏訪湖一周巡りをして、とても楽しいひとときでした。 

石崎アイ 〜 生い立ち 11 〜

嬉しいお手伝い

 

アイは朝食を済ませて、みんなと一緒にお部屋に戻ろうとしましたけれどおせっかい焼きの性格は、見て見ないふりができなかったので、 手洗い場の水が出しっぱなしになっていたことが気になって、途中で水を止めに戻ったのです。 水道の水を止めようとしたはずなのに、それがアイの運命を変える羽目になったのです。 そばに大きなバケツが置いてあって、中に台拭きが30枚ほど入っていたので、綺麗にすすいでバケツのふちにかけておきました。 

すると先生たちがびっくりして、アイの手を取って非常に喜んでくれたのです。 指導主任の田中先生は、あの観音様のような口調で非常に気に入ってくれました。

「あらありがとう!アイさんお手伝いしてくれてるの!あなたのおかげでとっても助かるわよ。 朝は忙しいからね本当にありがとう!」

アイは自分がやりたくてやったことなのに、こんなに喜んでもらえるとは思っていませんでした。 アイはいつも何か人のためにできることをしたいと思っていました。 

アイの夢は、誰も気がつかないでいることを自分が気がついてやることが人生の大きな財産になると思っていました。 アイはとても嬉しくて、自分は良いことをしていて良かったと思い、今はつらいことも。 つらいことかもしれないけれど、今に必ず良いことがあると信じていました。 家が貧しかったアイは、あまり着るものを 買ってもらうことができませんでした。ズボンに継ぎの当ててあるものを着ているのは、アイぐらいで誰も他にいませんでした。 年頃のアイはとても恥ずかしいと思っていたけれど、仕方がないのでなるべく次の小さいものを選んできていたのです。 お洗濯場へ行ってみても、継ぎのある赤いコールテンのズボンで、足首にゴムの入っているものは、アイのものだとすぐにわかりました。みんなのように綺麗な洋服が着れたらどんなに嬉しいか。 非常にみんなのことが羨ましく思ったりしていました。 そして、施設はほとんど見学者が多くて団体の視察者が来ると、入園者は動きが取れなくなってしまいます。 

指導員の先生たちの指示に従って訓練の演技をするのです。 まるで動物園のサルがチンパンジーのような感じになってしまいました。

「糞!なんでこんなことをしなきゃいけないんだ、見世物じゃねぞ!」

と、アイは鶏冠に来てしまい、非常に不愉快な思いをしていました。 みんな、 夜みんなから話を聞いて、施設というところはこういうものだということを知らされました。 

療護園の生活にもすっかり慣れたアイは、 朝夕のお手伝いが日課になってしまいました。ある時、アイは職員室に呼ばれて、たくさんの洋服をもらったのです。 先生たちはアイの心境をわかってくれていたのか、よくお手伝いをやることからのことでした。

「あなたは自分の意思でお手伝いをやってくれていたのね。あなたのおかげで先生たちをとっても助かっているのよ。アイさんあなたは毎日お手伝いをしてくれるのでね、これはお古だけれどもしよかったらと思ってね、お洗濯の洗い替えに来てちょうだい。」

アイは嬉しくて先生たちによくお礼を言いながら一生懸命頑張っていこうと思いました本当にいいんですかとっても嬉しいです。先生ありがとうございます早速着させていただきます。良いことをしていれば必ず報われるものだとアイはしみじみ思ったのです。 そして療護園に入ってくる人もいれば出て行く人もいるので、せっかく仲良しになっても別れなければならないのです。 アイは先輩たちからレース編みやビーズ細工の編み方を教わって一生懸命やりました。 
最初は手がよく動かなくて日にちはかかったけれど、どうにか完成できました。 先輩たちはとても褒めてくれて、アイも仲間に入れてくれました。
「あらあできたじゃない!わぁおめでとうアイさん、やればできるじゃん良かったね!」
 
アイは先生たちから喜ばれたり、先輩たちからも褒められたりで最高の喜びでした。だんだん体も大きくなってきて、お腹がすくようになってしまいました。 夜小さい子供たちが眠った後、先輩たちがコソコソと内緒話をしていたのです。 
アイも呼ばれて何のことかと思っていたら押入れに入ってカサカサをどう立てて何かをやっているのです。アイは何をやってるのか聞きました。先輩たちは アイに大福もちおやきなどたくさん分けてくれました。
「シィー、アイさんもおいで、これから内職をやるんだよ。 誰にも言っちゃ駄目よ。 わかった?さあおいで」
昼間先輩たちがコソコソ内職をして、したとか言っていたことはこれなのかと思いました。うんわかったありがとう、みんなが内職だって言うから、何の仕事かなって思ったんだよ食べることだったのか。 
先輩たちは、アイが納得する と安心したように、笑いながら頭をなでてくれました。 みんな17、8の人たちだから、両親や友達が面会に来ると、こっそりもらってしまうのです。 先輩たちの行動はうすうす先生たちも感づいていたかもしれません。しかし小さい子供たちの場合は、面会者が来て帰った後は食べ物が入っているかどうか先生たちは必ず荷物を調べて、食べ物が入っていると取り上げられてしまいます。
 
小包の場合も同じです。それは団体生活の規則で仕方がないことでした。1人がウイルスにかかると、100人全員が病気になってしまう恐れがあったからなのです。 親元を離れてきた子供たちを預かっている施設職員としては1人1人が責任重大でした。 しかし人間は個性と節度をうまく調和していなければならないと思うのです。 心のある人でなければ、純粋な子供たちの心に傷を入れてしまうこともあります。 指導員の中にも規則正しい義務的な人もいれば、寒い冬に暖炉のぬくもりのような厳しいけれど優しさがあって心を癒してくれる指導員もいました。 
1人でも意見の合わない指導員がいると、入園者までも、 影響を及ぼされることになります。 大人の世界では難しいと思い、アイは大人になるのはつくづく嫌だと思いました。先輩たちは指導員たちの姿を例に挙げて、アイにいました。
「私達はもうすぐ退園していくからいいけどね、アイさんたちは訓練頑張るんだよ!わかった? いい先生がいっぱいいるから心配しなくていいでいいよ」
アイは先輩たちの言葉を聞いていて悲しくなって泣き出しました。 
ほら、なかないでほらないじゃ駄目だって、そういながら先輩たちも泣いて自分たちのハンカチでアイの顔をふいてくれました。 こうしてアイはみんなとの友情がさらに深まっていったのです。 そしてお財布一つできたことで、アイは嬉しくて半年ぶりで母親に手紙を書きました。 両親が先生方に預けているお小遣いから先生に材料を買ってもらって、友達から教わって作ったビーズの財布を以下はどうしても母まつ江に見せたかったのです。 お腹がすくから先輩たちと食べる美味しいない色のものを持ってきてなどと書きました。しばらくして母まつ江は心配し、アイの様子を見ながら面会に来てくれたのです。 
アイはみんなからも職員からも人気者になって、 母まつ江にとって何よりの喜びでした。 アイは心の奥で母親を恨んだこと心もあったけれど、やはり母親ほど良いものはないことに気づいたのです。 まつ江はアイに頼まれたおやつになるものを先輩たちに渡してくれました。そしてまつ江はアイの成長している姿を見届けて安心したように帰っていったのです。 
 
まつ江は安心したものの、やはり母親としてアイを思う気持ちは変わりませんでした。 アイは玄関まで見送ったけれど母親の姿がだんだん小さくなるに従って、どうしようもなく涙がこみ上げてきて、玄関のガラス戸に顔を擦りつけて泣き出してしまいました。事務職の職員たちがアイをなだめるように部屋まで連れて行ったのです。 先輩たちが合いの手を引いて、養護学校の方まで遊びに連れて行ってくれました。 だんだんアイも機嫌が直ってきて、内職の相談をし始めたのです。 こうした繰り返して施設生活や団体生活のあり方が自然と身についていきました。