アイの日記 〜宇宙とつながる脳性麻痺のおばあちゃん〜

宇宙とつながるスピリチュアルなアイちゃんの日記です

石崎アイ 〜 生い立ち 14 〜

7 夢の道しるべ

療護園の並びに長野県諏訪養護学校という立派な教育施設が建てられていました。 設備よくできていて、廊下続きに教室まで車椅子で入っていかれるようになっていました。 アイはあと1年余りで18歳になるけれど、たとえ短い期間でも療護園にいるうちに 小学校で勉強を教わって、義務教育まで受けられたらと思っていました。 そして社会復帰を目指し、 夢と希望を大きく膨らませていたため、漢字や数字計算を覚えておきたくて、 指導員にお願いして、養護学校の教育施設の方へ 申し出たのです。 ところが年齢が行き過ぎているということで、「駄目だ」とあっさり断られしまいました。無残にもアイの 夢と希望は虚しい紙くず のようになってしまったのです。 しかし、 辛抱強いアイは、そのまま諦めようとはせずに、少ない時間でもたくさんの勉強を学びたいと一生懸命だったのです。 わかっていても、今度は担当指導員に、せめて必要なだけの勉強を教えて欲しいと願い出たのです。またアイの意欲に驚いていたのか困ったのか?指導員たちは顔を見合わせ、首をかしげてただペンを握りしめるだけでした。

それから、 数ヶ月後、アイの念願が叶ったのか、学校へ行かれなかった人たちを数人ほど集められ食堂の一部を教室にして、特別学級を設けてくれたのです。 幸いにも、担当指導員が保母さんだけれど、教師の資格があって、 養護学校で使われた教科書を借りて、小学校一年生から4年生までの勉強を教えてくれることになったのです。 勉強は一日おきでしたけれど、国語、算数と 漢字の調べ方から読み方、九九の覚え方、掛け算の計算を一通りのことを教わり、 社会はNHK教育テレビを見ながら、教科書と合わせて教えてもらいました。 

中には手足が効かなくて、唇で上手に本のページをめくって読む人もいたけれど、仲良く問題の答え合わせができるので、みんな勉強を楽しみにやっていました。しかし指導員たちが困っている一つの問題点があったのです。それはアイが絶対に家に戻りたくないということ、だから社会復帰を決めているということからでした。当時の社会福祉では、まだ重度障害者の授産施設ができる段階ではなくて、重度障害の子供たちの場合、施設に入っても期限が決められていて、また家に戻される仕組みでしたから、社会復帰を目指していても、不可能なことで世間でも認められていない非常に難しい問題でした。アイが社会復帰を目指していることはすごいと思うが、当然無理なことで結局家に戻すしか解決方法はなかったのです。そしてアイと同じように一生懸命夢を描いている子供たちのために今後どうすればよいか指導員たちが検討した結果、まず父兄懇談会を開いて、家族の考えや意見を聞いたところ子供たちのことを考えている家族もいたけれど、 結構曖昧に考えているところが多かったのです。そこで重度障害を持つ子供たちの将来のためにこれからの施設の問題から福祉の質問題について考えて検討していく方針を立てられていたのです。しているうちにもアイの18歳という期限は一刻一刻と迫っていました。
昭和39年3月には大勢の人たちが療護園を入れ替わったときで高校へ進学する人たちや社会人になっていく人たちが夢を描き、希望にあふれた姿で品の生死療護園を出て行こうとしてしていたのです。まるで渡り鳥が翼を大きく広げて羽ばたきながら暖かい南の国へ飛び立っていくような光景に見えたのです。
しばらくして指導主任の田中先生から緊急連絡事項の知らせが入り、みんなに食堂に集まると今度食事の稲荷山に信濃整肢療護園の分園ができて稲荷山療育園という施設名で主に脳性麻痺の子供専用に通園施設として新しく建てられたものでした。そこで職員たち数名の移動発表が行われて、その後、脳性麻痺の児童数名の異動発表が行われることになっていたけれども、慌て者のアイは大好きな優しい先生方や友達がいなくなると聞いて寂しさや悲しさが込み上がってきて泣き出してしまったのです。アイが泣きだしたことでみんなもつられて泣き出してしまい、職員たちももらい泣きしてハンカチを目に当てながら、これからの方針や内容説明を神妙に聞いていました。児童数名の名前が呼び上げられて、移動発表が行われた中にアイも入っていて、稲荷山へ移されることになったのです。まさか自分までが新しい施設へされるとは思っていなかったので、アイは嬉しいような寂しいような不安な複雑な気持ちでした。そして昭和39年7月にアイを含む数名の児童たちは、信濃整肢療護園を後にマイクロバスに乗って更埴市の稲荷山療育園へと移動してイタチが療育園に到着すると、知り合いの職員たちが多かったので、気安く声をかけてきてくれたのです。 入園者は初めてなので、みんな玄関に入れて迎えてくれたけれど、お互いに戸惑いがあって恐る恐る話しかける状態だったのです。稲荷山療育園は入園者50名収容でほとんどの子供たちが1日2日前に入ったということです。
建物が完成したばかりで綺麗でしたが、困ったことに水道の水が茶色に濁っていて、消毒臭くて、泥水に牛乳をこぼしたような色で飲める状態ではなかったのです。喉が渇いても水が飲めないので、厨房の方からは毎日大きなやかんに番茶を沸かし湯ざましにしたものを用意されてあったので、それを飲むしかなかったのです。
入浴のお湯も抹茶色でそれこそ番茶のお風呂にでも入ってるような感じでさっぱりしないか気分でした。洗濯場のおばさんたちが一生懸命漂白剤を使って洗ってくれても白い下着やシーツなどの全てのものが茶色い色が変わってしまうので、みんな困った状態でした。そんなを養護学校もできていないので、先生たちもしばらくの間は療育園兼用で指導員たちと一緒に仕事をしていたのです。療育園の部屋の一部を教室にして授業時間はみんな先生について一生懸命勉強に励んでいました。本園の療護園にいたころよりもアイは時間がずっと短く感じていたのです。そんな状態が2年ぐらい続き、アイが出た後も暫く続いたということでした。