アイの日記 〜宇宙とつながる脳性麻痺のおばあちゃん〜

宇宙とつながるスピリチュアルなアイちゃんの日記です

石崎アイ 〜 生い立ち 9 〜

「嵐に耐える白百合」

 

そしてアイは草を取りに出て行って帰る途中で大雨に当たってしまったのです。

雨宿りをするところもなくて、大きなクルミの木の下で雨が止むのを待っていながら、いろいろなことを考えました。

弟や妹が学校の帰り道に雨が波降ってくると、

両親は傘を持って迎えに行くのに、

アイがびしょびしょ濡れになっていても、誰も迎えに来てくれませんでした。

アイは悲しい気持ちになっているとはるか先に見える家並みに

風と雨にさらされながら白色の花が揺れていました。

アイは自分の生き方をあの白百合に似せて考えずにはいられなかったのです。白百合が凛々しい姿に見えて、自分も下向きの姿勢で、

強く明るくたくましい人生を歩みたいと思いました。

敬一は自分が良いことをしていると気がつき、楽しみが湧いて、

得意そうに言いました。

「ねえやん、水沢先生から手紙だぞ。先生なあ、明日授業終わってから家に来てくれると!」

水沢先生は特別に家に来てくれて、アイとともに家族にまでも教育してくださいました。そして水沢先生は、教育者の立場から家庭のしつけから愛情面いろいろな面からを話してくださって、

家族の考え方も変わってきて、特に両親の考えが変わってきたのです。

勇気と正義感を人に教え、自ら行動を示すことはなかなか難しいことです。

まつ江は信仰者の人たちからアイのために心を信仰に向けた限り、

そのことを大事に思わなければ、一家は救われていかないことをそ言われていました。

常に感謝の心を忘れずに持ち続けていることが何よりの救われる道だとよくよく聞かされていたのです。

そしてまつ江は自分は不幸だと思わないで、家族の安泰になるように祈ることが幸せな境涯を導くことだと聞かされていました。

人間誰しも危機が迫ってから、真剣な心や素直な心がよみがえるものです。

 

しかし、長年にわたり身についた行動を新たに入れ替えることはなかなか難しいことでした。
まつ江の友達も信仰者の1人なので、その人がアイを心配して来てくれたのです。
アイはとても懐かしさで甘えてしまい、つい、母親に言われたことを悔し紛れに話したのです。
すると困ったように、まつ江を呼んで意見をし始めたのです。
「まつ江、あなたは自分のことしか考えてないんじゃないの。
アイを何だと思ってるの。あなたは馬鹿ね、アイのことを本当に考えているの何を言っているの!第1あなたの一番かわいい子供でしょ。かわいそうにね、はいこれからお母さんがね、いろいろ言ったらすぐおばちゃんに言いなさいね。いいわね、全く母親のくせになっていない母親だね、あなたという人は!」
まつ江は友達の恭子に説教されて、そのときだけは目に涙を光らせてわかったように見えました。
まつ江は母親としての自覚があるものの、三つ子の魂百までもと難しいことでした。
それからしばらくして、敬一の小学校の校長先生と水沢先生はアイのためにいろいろと提案を練って、養護学校福祉施設を心配してくださっていました。
弟の敬一も4年生になり、担任は水沢先生から男の先生に変わったのです。
その後1年くらい経って、水沢先生は一身上の都合で教員を辞めることになりました。
水沢先生は学校を辞めてからもう2年余り、アイのために毎月家まで訪問してくださって、ケージを使った教科書で勉強を教えてくださったのです。
祖母は14、14歳になったアイの将来のことを考えると心配で水沢先生にお願いせずにはいられなくて、相談を持ちかけました。
「先生にこんなことをお願いする次第ではねでやすがな、この子が不憫でな。
わしはこの子が一人前になるまではなあ、心でも死にきれねですよ明日は
わし概念あとは、
心配でしてな。
どうなっていくことやら安心できね安は先生何分にもお願い申しますわ」

 

ミツは涙ながらに畳に頭を擦りつけて、
神や仏に乗るように、アイのことを水沢先生にお願いしていました。
水沢先生は、家庭の事情がよくないことを悟ったらしく、88歳の祖母を励ましてくださいました。
「おばあちゃん、そんなに心配なさらなくてもよろしいですよ。
これからは福祉事務所からもアイちゃんのことは心配してくださいますからね。
多分親良、ご両親だって心配しておられると思いますよ。私もなんとか力になれると思っておりますのでねアイちゃんもいろいろわかっているようだからね頑張るのよね」
水沢先生はアイの膝を軽く叩いて言いました。そのときからアイは心の中で何か芽生えさせようと考えていました。そしてアイは母親が用意してあった材料で、夕食の支度をしながら竈門にぼやを
くべて燃え上がる火を見ながら自分の姿を思い浮かべていました。アイは自分の人生は自分自身で決めていかねばならないと思ったのです。その晩思い切って祖母密に言いました。
「ばあちゃん私決めたよ、諏訪の用語療護園へ行くよばあちゃんと別れるのはちょっと寂しいけれどしょうがないよね」
アイはとっても悲しくて泣きたい思いだったけれど、泣くのを我慢して言いました。すると祖母はポロポロ涙を流し、非常に寂しそうに言ったのです。
「そうか、そうか寂しくなるな。そうだなあ我のためにはその方がいいな。
こんなところで
意地こじされているよりはなあ、嫌だったら軽って来いよ」
あるいは自分の気持ちが決まったので福祉施設に入りたいことを言うと、母まつ江は今までと打って変わって急にしおらしくなり戸惑っていました。
水沢先生は、アイの話を聞くと、アイを抱きしめて喜んでくださいました。
急にみんなが優しくなったので、照れくさいような気持ちで変な気分でした。父親も本当の我が子のように世話を焼いて心配してくれました。
そしてしばらくたって福祉事務所の方たちが来てくれて、当時の諏訪郡下諏訪町にあった。
肢体不自由児児童福祉施設品の生資料声に入る手続きをしてくださったのです。
周りの人たちも安心したように、アイのために本当に良かったと喜んでいました。

 

しかし、アイは様々な思い出が残された家と、いろいろなことから自分を育ててくれた祖母に別れを告げて出ていくことは非常につらい気持ちだったのです。
そして翌年、昭和38年3月に、アイは15歳で人生の旅立ちとなっていきました。
役場の人たちと自転車に乗った自動車に乗って、下諏訪に入ると諏訪湖が見えてきたのです。
アイは珍しくて、湖を見ていると、療護園の玄関前に着いてしまいました。
実は療護園から諏訪湖が丸見えだったのです。いよいよ今日からアイの新しい生活が始まろうとしていました。指導主任の先生から園内を案内から、施設の規則の説明をされた後、
家族の生活状況から、アイの今までの心境などをいろいろと細かく聞かされます。聞かれました。
世間慣れしていないまつ江は田舎言葉で聞かれるままに、アイの分まで答えてくれていました。
そして園内が広くて手すりに捕まって歩いても、アイの歩く速度では大変でした。福祉事務所の人たちに帰る準備を進められてまつ江は涙を浮かべながら言いました。
「アイ、かあちゃんはなこれで帰るかな。元気でいろよ」。
アイに別れを告げたけれど、心配で後ろ髪を引かれる思いで、自動車に乗り込みました。今までと全く違った生活に変わっても、アイはみんなと仲良くやっていけるか心配で、まつ江はアイのいない寂しさと不安で泣いていました。
当時、児童福祉施設に入れば、1年間は家に帰れないし、食べれものは、たとえ家族のものであっても外からのものは一切禁じられていました。
お部屋は1病棟2病棟とあって、病院形式になっていたのです。1病棟は1号室から7号室まで、ベッドの55部屋で医者や看護師が管理していました。
2病棟は杉松竹梅といった順に4部屋になっていて、保母指導員の係でした。
そして、園長先生は医学でも整形外科で有名な井上正夫先生でした。
アイは初めてなので心細い思いでオロオロしていると、指導主任の田中先生は、アイを部屋まで連れて行ってみんなに紹介をしてくれました。
 
田中先生は結構お年を召されていて、見た感じのが観音様がポツポツと説教しているような静かで説得力のある喋り方をしていました。「はい、アイさんのお部屋はここですよ、皆さん。今日からね、今日新しく入られたアイさんですよ。仲良くやってくださいね。皆さんよろしくね」田中先生は静かに去っていきました。アイは1人取り残されたように、緊張して体中がカチカチでした。皆は笑顔で迎えてくれて、アイを囲むように話しかけてくれたのです。自分よりも年上の人たちが大勢いて、よく面倒見てくれました。そしてアイは2日目になって、窓の外を眺めているうちに涙がこみ上げてきて、家族のことやいろいろなことをが思い出されてきて、どうしようもなく、泣き出してしまいました。みんなはアイを抱いたり、おぶったりして慰めてくれたりしました。指導員と保母さんたちは始まったというように、という様子で、アイを入浴室へ連れて行きました。